2013年御翼5月号その3

自分の力に頼る人と、謙遜に悔い改める人との違い

 丸屋真也『御霊に属する人、肉に属する人』(いのちのことば社)より
 例えばクリスチャンとして、隣人を愛さなければと思っているのに妬みや怒りを感じたとき、どうすべきだろうか。自分の力に頼る人と、謙遜に悔い改める人も、罪を犯してしまうことは同じである。ただ、そういうときに示す反応が大きく違うのだ。
 自分の力に頼ろうとする人は、こういうときに、まず反省する。「ああ、神様、私は本当にだめです。あなたから隣人を愛しなさいと言われているのに、つい憎んでしまいました。どうぞ、赦してください。これからは、決して怒りや憎しみを抱かないようにします。あの人にもっと仕えることができるように助けてください」と祈る。これは、「神様、助けてください」と祈っているから、自分の頭の中では「イエス・キリストによって」歩んでいると考えている。ところが心の深いところでは、自分自身が作った「次はあの人にもっと愛を示さなければいけない」というルールに従わないといけないと思っているのだから、実は律法に従っているのだ。
 一方、悔い改めを知っている人は、どのように反応するだろうか。「私は愛したいと思っている相手に怒りと憎しみを感じてしまう。でも、そういう自分を神様は、イエス様を十字架にかけてまで赦してくださったんだ。そんなにまで愛してくださって、本当に感謝します」と、神の恵みに立つのだ。そうすると、神の愛に圧倒されることになる。そうなると、次にその人に会ったときには、自分のことをこんなにまで愛してくださっている神の愛に根ざして、その人にかかわりたいと思って祈るようになる。これは、自分の力に頼っている人と目標は同じであっても、動機がまったく違う。罪悪感や不安による「もっと愛さなければ」という動機からではなく、自分を愛してくださる神の愛を体験することによってそうしようと思うのだ。この差は、信仰を実践する上で一番大事なことなのだ。
 真の悔い改めを知っている人は、どれだけ失敗しても、神様の赦しと愛は変わらないことを知っている。する神様は、相手の人のことも同じように赦し、愛していらっしゃることがわかる。このように、どこまでも愛と赦しと恵みの中に生きていくときに、神様の愛に押し出されるようにして、自分ではない新しい自分がそこに現れてくる。これが成長なのだ。
 失敗したとき、これからは聖書をもっと読もうとか、今までの倍の時間を祈りに費やそうとか、もっと人に仕えよう、などと考えるのは、それ自体はよいことである。しかし、イエス、キリストの十字架と復活を充分に受け取ることができないままで、その代替え品としてそれらをするなら、それが、自分が定めた律法になってしまう。そして、決めたとおりにできないと、平安がなくなる。何かを守れば祝福されるとか、自分がこうすれば神はこうしてくださるという考え方こそ、律法的な信仰なのだ。人は、今の自分が、行いによってではなく、イエス・キリストの十字架と復活によって百パーセント神に受け入れられ、義とされていることを受け入れるそのときに、心と魂は神の愛に満たされる。   

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